2016年08月15日

満吉村について <一貴山校区・二丈満吉> 2014年12月-2015年1月

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    十三小區四村之内 満吉村

  東福岡縣廰道程六里十四町。

  彊域、東長石村(七町)、波呂村(十二町)、東南小蔵村(一里十二町)、

  西南一貴山村(十八町)、西片峯村(九町)、北石崎村(八町)ニ接シ、

  人家本村(二十五戸)、一瀬(一戸)、唐原(五戸)

  (本村ヨリ南山上十七町余、人家五戸アリ。

  平重盛ノ内室二随来リシ者ノ子孫ト云。此處寒気烈ク、積雪ノ時ハ往来ヲ絶ツ。夏蚊ナシ。
 
  按ズルニ唐原ハ塔原ノ訛リカ)、三所ニアリ。

  舊中津縣管轄二十四村ノ一ナリ。

  地形、南ニ高山アリ。其北麓ニ居テ、稍高シ。運送ノ便、中。

  (一瀬唐原ノ山谷間ニ在テ○アシ、深江驛二十五町、加布里一里十町)

  土質四分K土砂交、六分赤土。四分乾地、濕地。水挨アリ。地味中。

  田ハ中稻、六分晩稻。麥菜種畑ハ琉球芋等ヲ作ル。

  此村、耕地六分ハ山間ニアリ。用水冷メ寒落ノ患アリ。


                  ー『福岡縣史・近代資料編・福岡縣地理全誌(六)』
                    卷之一百四十六 怡土郡之六 満吉村







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  大字滿吉は彊域東長石七町、波呂十二町、東南長糸村小蔵一里十二町、

  西南一貴山十八町、西上深江九町、北石崎八町あり。

  人家は本村、市瀬、唐原(とうのはる)の三所にあり。

  舊中津藩二十四村の一なり。地形南に高山あり、其北麓に居て稍高し。

  唐原は滿吉本區より十七町山上に在り。人家五戶あり。

  平重盛の内室に隨ひ來りし者の子孫といふ。

  此處寒氣烈しく積雪の時は往來を斷つ。夏蚊なし。

  按するに唐原は塔原の訛りか。

              ー『糸島郡誌』後編 一貴山村 第十三章 各區雜錄







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かつての満吉村は、東に長石、西南に一貴山、西に上深江、北に石崎に隣接する。
一貴山、長石、波呂と同じく、南の脊振山系の高山に向かって南北に伸びた形の村である。
人家は本村、市瀬、唐原の3ヵ所で、
冬は寒さが厳しく、積雪によって往来が困難となることも少なくなかった。

「満吉(みつよし)」という地名は、
古くは肥前国のミツセ(三瀬)からこの地に移住してきた人々が、
郷里にちなんで付けた地名が転訛したいう説がある。
また、村の南2キロメートルに位置する「唐原(とうばる)」は、
もとは「塔原」の漢字を当てており、その名の起こりは、
清賀上人開基の「塔原寺」がこの地にあったからだと考えられる。

唐原は、村の南2キロメートル足らずの山間の盆地で、
冬には寒気が厳しく積雪が多い高冷地のため、収穫薄で年貢上納には苦しんだ。
この唐原の地を中心に、「平家の落人伝説」が伝わる、平家隠れの里として有名である。
満吉にはこの伝説を伝える遺跡が数多く残っている。






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一貴山校区では、河原村についで人口が少なかった。


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満吉天満宮

唐原へ逃れた平重盛内室が勧請したという熊野社と合祀された満吉天満宮。
明治5(1872)年11月3日に村社に定められた。


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五久塚

北の田の中にあって、学名は「沼二号塚」。
一般的にドルメン(支石墓)と呼ばれる外来墓制の石組みの墓であると考えられる。


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東光寺跡

満吉公民館隣にある東光寺跡と納骨堂がある。
お堂には、この地に庵寺を建てて、修行に励んだという龍国寺の僧、寸心が祀られている。


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享保の大飢饉供養塔

享保17(1732)年の大飢饉の死者を祀った一基の供養塔が建っている。
石塔の正面には、「大乗妙典一字一石書寫供養」と彫られている。


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千福寺跡

源氏の追っ手によって惨殺されたという重盛遺児である二人の姫を弔うため、
原田種直が建てたとされる千福寺の跡。内室が建てたという説もある。


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平家落人の里・唐原

平家の落人である重盛の内室と二人の姫、その従者たちが隠れ住んだ、
人里離れた山間の地、唐原にはこの伝説を伝える遺跡が数多く残されている。


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都見石

都見石の目印となる石燈籠は、棚田の中に立つ。
残念ながら現在は柵を巡らされており、近くに行って石を見ることはできなくなっている。


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黒髪山

かつて平重盛の遺髪が埋められていたという黒髪塚がある、黒髪山。
空坊主の木々は桜。


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薬師堂

昭和初期まで祭礼の日には、人だかりができるほど賑わっていたという薬師堂。
お堂の向かって左隣には、村の水利問題に尽力した鴻漸和尚を称える顕彰碑が建っている。


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平重盛内室の墓

平重盛内室の墓。乳母や重臣たちも祀られているともいわれている。
墓の傍にはカエデとイスノキの大木が立っている。


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千寿院の滝

千寿院入口の向かいにある山道を少し歩けば、涼しい滝の音が聞こえてくる。
滝には、千姫と福姫が滝前で舞を舞ったという言い伝えもある。






参考:『怡土志摩地理全誌・1怡土篇』/由比章祐(糸島新聞社)
   『二丈町誌・平成版』/二丈町誌編纂委員会(二丈町)  他




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平家の守護神を祀る神社 <一貴山校区・二丈満吉> 満吉天満宮/2014年12月

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    村社天満宮

  大字滿吉本區の西北二町字森園にあり。

  祭神瓊々杵尊、菅原大神。祭日十月廿六日。

  境内神社、稻荷神社。

      ー『糸島郡誌』後編 一貴山村 第八章 社寺







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    村社熊野神社

   大字滿吉字鳥越にあり。

  祭神事解男命。伊弉諾尊,伊弉册尊。

  祭日九月九日。

  小松重盛の内室太宰府を落ち去りて此所に住し、

  紀伊國熊野三社を勸請せられしと云ふ。

  古は繁盛なりしと見えて原田氏より田畑八町寄附あり。

  社地に伽藍ありしが天文の比兵火にて燒失す。

  又C賀作の佛像もありしが延寳二年甲寅燒失せり。

  其内千手観音は重盛生時の念持佛なりしと云ふ。今も在り。

      ー『糸島郡誌』後編 一貴山村 第八章 社寺







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満吉天満宮は、北に隣接する石崎から満吉を南に400メートルほど進んで、
最初の集落の中にある参道から高台の境内に入ることができる。
一番目の石鳥居の傍にはスナップ式案内板が立っており、
それによると、明治5(1872)年11月3日村社に定められたとある。

祭日は10月1日(現在は10月第1日曜日)。

かつて平重盛の内室が、都から逃れてこの地に住んだときに
紀伊国熊野三社から勧請したという村社が満吉字鳥越にあったが、
大正2(1913)年9月11日にこちらの合祀許可を受けた。

祭神は、瓊々杵尊(ににぎ の みこと)、菅原大神、速玉之男命(はやたまのお の みこと)、
伊弉册尊(いざなみ の みこと)、事解男命(ことさかのお の みこと)。
速玉之男命以下の三神は、平家の守護神として祀られていたものらしい。

境内社には、綿積命(わたつみ の みこと)を祭神とする龍王神社がある。






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拝殿。


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阿の口中に見える玉は可動式。吽の頭には、なぜか砂を盛られている。


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さらにその後ろにはもう一対の狛犬。これは極限までデフォルメされた「肥前狛犬」という種。


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拝殿の軒先にはスズメバチの巣跡。






参考:『怡土志摩地理全誌・1怡土篇』/由比章祐(糸島新聞社)
   『二丈町誌・平成版』/二丈町誌編纂委員会(二丈町)
   【神社由緒】(掲示板)





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唐原の平家落人伝説 <一貴山校区・二丈満吉> 唐原の平家落人の遺跡/2014年12月-2015年1月

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    塔原寺址


  唐原に在り、C賀の開基といふ。

         ー『糸島郡誌』後編 一貴山村 第十章 史蹟名勝







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    千福寺址
  
  滿吉に在り、重盛の息女二人追福のため其母建立すといふ。

  今宅地となれり。

         ー『糸島郡誌』後編 一貴山村 第十章 史蹟名勝







    東光寺址

  滿吉に在り。平重盛内室の建立に係るといふ。

         ー『糸島郡誌』後編 一貴山村 第十章 史蹟名勝







    重盛内室墓

  唐原の南三町林叢中にあり。高三尺五輪塔なり。

  此五輪塔は後世の作なり。唐原の農民等祖先の由緒とて草堂を建て、

  古來崇敬して香華を供へ來れり。外に野石二個あり。

  共に高さ二尺息女の墓なるべし。其外乳母家臣等の墓とてあり。

         ー『糸島郡誌』後編 一貴山村 第十章 史蹟名勝







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二丈満吉に入って南に3キロメートルほど進んだところが、唐原(とうばる)である。
車両一台が通れるほどの細い道は曲がりくねっており、まさに山間僻地。
人の侵入が気安いとはいえないこの地は、平家落人(へいけおちうど)の里として有名である。

平安時代末期。
治承4(1180)年から始まった源平合戦は、一ノ谷の戦い、
屋島の戦いで連敗を喫した平家方の敗色が濃厚となった。
これにともない平家一門をはじめその郎党の中には
各地に隠遁を余儀なくされる者が出るようになった。
その中の一行に、平重盛(たいら の しげもり)の内室とその遺児である二人の姫がいた。

重盛は清盛の長男で、父の後継者として正二位内大臣まで登り詰めているが、
病に倒れた後、鹿ヶ谷の陰謀をきっかけに政界から姿を消すとそのまま病死している。

重盛の内室一行が九州へ逃れてきたのは治承8(1184)年のこと。
一行は筑紫の豪族で、当時の大宰少弐である原田直種を頼って大宰府に下って来た。
直種は平家に与して平治の乱、保元の乱で戦功を挙げており、
また直種の妻は重盛の養女(叔父・家盛の娘)であったことから、
平氏と深い関係にあったとされる。
そのころ源氏の追っ手が西国に入ったとの報を受けた直種は、
内室と千姫、福姫の二人の姫を迎えて人里離れた唐原へ隠した。

内室はこの地で息を潜めて暮らすことを覚悟すると、重盛の遺髪を
小さな山の上に埋めて塚をつくり、それに毎日手を合わせていたという。
現在その山は「黒髪山」と呼ばれており、その裾を流れる川は「黒髪川」と呼ぶ。
また、その山の前には紀伊国の熊野三社から勧請した社を建てて、
平家の守護神として祀った。

直種から送られてくる食料や物資を頼りに、不自由なく暮らしていたと思われる
一行であったが、都のような華やかな生活はそこにはなく、寂しい山隠れの日々。


  「早く都に帰りたい・・・」


幼い二人の姫からそんな心の声が口から出ても不思議ではない。
姫たちは都が恋しくなると、遠く可也山や入り組んだ船越の港湾を一望できる
高台の大石に上がっては、東の空に望郷の思いを馳せていたという。
このとき姫たちが上ったとされる平たい大石は、
現在も「都見石(みやこみいし)」の呼称で残っている。

しかし、元暦2(1185)年平家が壇ノ浦で滅亡すると、
遂に源氏の追っ手が唐原にまで及んで来た。
二人の姫そして乳母は、突然目の前に現れた源氏の刺客に無惨にも斬られて、
その場で息を引き取ったという。

悲しみの底に突き落とされた内室は「千福寺」を建てて
姫たちを懇ろ供養したが、そののちに娘たちの後を追って自害した。

残された従者たちは、内室の墓を建てると出自を隠し、
ひっそりと農耕をして暮らしながら三人の霊を弔い続けた。
現在この地にある5戸はこの子孫といわれ、それぞれ姓や菩提寺が
共通しないのは、一切の素性を秘し隠すためだといわれている。






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二人の姫の名前「千」と「福」の文字をとって付けられたという「千福寺」の跡。
お堂の裏手には、千姫と福姫を祀るという小さな二基の供養塔が並んでいる。

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二人の姫が都を恋しんで上っていたとされる「都見石」の目印となる石燈籠。
現在は棚田に巡らされた柵があって、石を近くで見ることができなくなっている。

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黒髪山にある平重盛の遺髪が納められた「黒髪塚」。
遺髪はすでに盗掘にあって今は埋まっていないという。

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平重盛内室が建てたとされる「東光寺」の跡は、満吉公民館の隣にある。
「東光寺跡」には現在地蔵尊が祀られている。

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乳母や従臣も祀られているという平重盛内室之の墓所の傍には、
見事なカエデ(写真上・左)とイスノキ(同・右)の大木が立っている。






参考:『怡土志摩地理全誌・1怡土篇』/由比章祐(糸島新聞社)
   『糸島伝説集』/糸島伝説集編集委員会(糸島郡観光協会事務局)
   『二丈町誌・平成版』/二丈町誌編纂委員会(二丈町)
   『怡土志摩石ものがたり』/坂本繁俊(梓書院)
   『詳説日本史』/石井進・笠原一男・児玉幸多・笹山晴生(山川出版社) 他





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ここは御陵苑内なり! <一貴山校区・二丈満吉> 薬師堂と鴻漸和尚/2015年1月

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    事業家鴻漸和尚

  姓は高島氏、大字武の產なり。

  龍国寺九世の法統を継承せる和尚なり。

  蓋し塔原は小松重盛の内室の舊蹟と言い傳へ俗に御陵苑と號し、

  龍国寺開創以來寺有の土地なり。

  故に今を去る殆んど二百年前鴻漸が此地を開墾するや、よく山谷の水脈を利用し

  原野の中腹を穿って井堤を作り、御陵苑内の四文字を水路附近の自然石に彫刻し、

  以て永遠の水利を獲得して数反步の水田を作るを得たり。

  是に於て其水は悉く大字滿吉石崎長石片峰等の田面に灌漑し

  其水利の通路は未だ嘗て旱魃の患を見ず。

  之れ偏に和尚の勤功として記念すべき事たるを失はす。

  今や有志相謀り碑を塔原藥師堂側に建てその恩コを表彰せり。

  因にその灌漑段別をあぐれば左の如し。

    滿 吉 三十六町步   石 崎 三十六町步

    長 石 十二町步    片 峰 八段步

    一貴山 六町步   

              ー『糸島郡誌』後編 一貴山村 第五章 人物







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    熊野神社址

  滿吉の南十七町にあり、唐原といふ。

  平重盛の内室太宰府を去つて此所に住し、熊野三社を勸請せられしといふ。

  古は原田氏より田畑八町寄附あり。

  古は社地に伽藍ありしが天文年間兵火にて燒失す。

  社祠は近時滿吉天満宮に合祠し廢地となる。

  附近に藥師堂あり。

  鴻漸和尚の顯彰碑あり。

         ー『糸島郡誌』後編 一貴山村 第五章 史蹟名勝







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満吉最南の山間、唐原(とうばる)にある「薬師堂」は、
奈良時代に建立した怡土七ヵ寺の一つ、雷山千如寺と同じ、
神亀元(724)年頃からあったといわれる古いお堂である。

「お薬師様」と呼ばれ、かつては祭礼の日であった4月12日には
近郷から多くの人が集まって、屋台が出るほど賑わっていたという。

この境内の向かって左手のスペースには、大きな石碑が建っている。
石碑の正面には、「鴻漸大和尚頌徳碑」と刻まれており、
これには以下のような話が残っている。






  享保初(1716)年は大旱魃であった。
  ひどい旱魃のときには、各地で水争いが起こった。

  唐原の、かつて平重盛内室がこの地に隠れ住んだときに
  重盛の遺髪を納めたという黒髪山。その裾を流れる黒髪川は、
  北西に下って一貴山川と交わり、途中周辺の村々へ広く分水しながら、
  上深江を経て羅漢川と合流し、深江の湾へ流れ出る。
  この水利を巡って、深江側と一貴山側(満吉・石崎・長石・波呂)が対立した。
  当時唐原は「御陵苑(ごりょうその)」といって龍国寺の寺領であり、
  波呂や石崎は水源の多くをこの黒髪川に頼っていた。
  武の高島家の出である龍国寺9代目住職の鴻漸(こうぜん)和尚は、
  実地調査に基づいた公正な立場から深江側に対して、波呂、石崎側の窮状を訴えた。
  しかし、深江側は和尚の言葉を頑として聞き入れなかった。


    「わかり申した。
     どうしても儂の言うことがわかってもらえんようじゃナ。
     ならば深江の人々よ、明朝、もう一度ここに集まりなされ。
     黒髪川が波呂、長石方面のものであるという動かぬ証拠をお見せしましょう」


  和尚には考えがあった。

  その晩、和尚は石鎚と鑿(のみ)を持って険しい山道を登った。
  それから黒髪川の東側の川辺に立った和尚は、
  木立の中にあった大石を一つ選び、「御陵苑内」の文字を刻み付けた。
  続けて川の西側でも、同じように大石を見つけて四つの文字を彫った。
  和尚が石に鑿を打ち続ける音が、一晩中辺りに響いていたという。

  そして明くる朝。

  和尚は集まった深江側の人々を伴って黒髪川の川辺にやって来た。


    「皆さん、ご苦労じゃった。
     ここじゃ。
     これを見てくだされ」


  和尚の指さす川端の石には、くっきりと刻まれた「御陵苑内」の四文字。


    「黒髪川の水はどのように利用されるのが道理か…。
     そもそも黒髪川の水源を含めた一帯は、今から500年も昔に、
     平重盛公の菩提として龍国寺を建てた原田種直公が、
     『御陵苑』と名付けて特別な地とされたところ。
     それにな、『御陵』とは神聖な天皇の墓所を意味する言葉、
     一般の民が決して侵すことの許されぬ場所とされたところですぞ。  
     もうおわかりでしょう」


  こうして深江の人々を前に和尚は「御陵苑」の意味を
  懇々と説いたので、とうとう深江側も納得した。
  その後、和尚は藩の許可を受けて井手を造ると、満吉36町、石崎36町、
  長石12町、片峯8町など92町歩は永久に水利権を得ることができた。






この和尚の遺業は、鴻漸大井手(こうぜんおおいで)と呼ばれ、
同地の薬師堂傍には和尚を称える碑が建てられた。
また、この時和尚が彫ったとされる石の一つもこのお堂の前に置かれている。
もう一つは千寿院の滝に登る途中にあるのが、平成16(2004)年に発見された。






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鴻漸和尚頌徳碑。建碑に際して、満吉・長石・石崎から
各100円の計300円が寄付されたと碑の背面には刻まれている。

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「御陵苑内」と鴻漸和尚が彫ったとされる石。一つは薬師堂前に置かれている。


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鴻漸大井手。千寿院の滝へ向かう山道の途中にある。


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薬師堂の斜向いのかつて熊野神社あったとされる場所には、
現在「熊野神社跡地」と刻まれた石碑が立っている。






参考:『怡土志摩地理全誌・1怡土篇』/由比章祐(糸島新聞社)
   『糸島伝説集』/糸島伝説集編集委員会(糸島郡観光協会事務局)
   『二丈町誌・平成版』/二丈町誌編纂委員会(二丈町)





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二人の姫が舞った滝 <一貴山校区・二丈満吉> 千寿院と千寿院の滝/2014年12月

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    唐原山

  村ノ南ニ在リ。

  山麓ヨリ十七町険阻ヲ上リ、支郷唐原アリ。

  又西南三町上リ、平(タビラ)ト云所アリ。

  此邊造耕地アリ。

  北ノ方志摩郡分岐志舩越芥屋姫島等一覧シテ、佳景ナリ。

    ー『福岡県史・近代資料編・福岡県地理全誌(六)』
     巻之一百四十六 怡土郡之六 滿吉村 山岳







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唐原に入って左手に並ぶ「都見石」、「黒髪山」そして「薬師堂」を過ぎたところで、
S字カーブに差し掛かるが、そのすぐ先に「千寿院」がある。
新旧の文献でその寺名は認められず、詳細は不明である。

唐原の名所の一つ「千寿院の滝」は、
この千寿院入り口前の山道を約400メートルほど登ったところにある。
滝の高さは約15メートル、幅12メートル。
地元では「満濃(みのう)の滝」や「お滝」とも呼ばれているという。

ここもまた「平家落人伝説」にゆかりがあって、涼みに訪れた千姫と福姫が、
爽快な飛沫が弾ける滝を前に舞を舞ったといういい伝えもある。

辺りは杉の木に囲まれており、確かなマイナスイオン(?)を感じることができる。
マイナスイオンが健康によいという科学的な根拠はないというが、
滝の傍にいると、心身ともに洗われているような気分になる。
唐原が山間の僻地ゆえに、年間を通して訪れる人が少ないのも、
密かなスポットとして魅力的である。






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千寿院の本堂。


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千寿院境内に構える韋駄天像(?)。
日本の禅宗においては厨房や僧坊を守る護法神として祀られているらしい。

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千寿院の前に建つ唐原林道開設を記念した「開道之碑」。
碑には昭和27(1952)年から始まって、昭和41(1966)年に竣功とある。

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千寿院の滝駐車場にはトイレも完備されている。


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滝までの途中には、やや足場が不安定なところもある。


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大晦日の午前中、私以外に滝に人はなし。


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千寿院の展望台より可也山方面を見る。






参考:『二丈町誌・平成版』/二丈町誌編纂委員会(二丈町)




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