2016年08月15日

長石村について <一貴山校区・二丈長石> 2015年3月

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    十ニ小區四村之内 長石村

  東北福岡縣廰道程六里七町。

  彊域、東波呂村(七町)、西満吉村(七町)、西北石崎村(九町)ニ接シ、

  人家本村(十五戸)、平田(十戸)、三月田(十戸)、向原(七戸)、四所ニアリ。

  舊中津縣管轄二十四村ノ一ナリ。地形稍高シ、南ニ山アリテ村落稍高ク、

  東西北平地。運送ノ便、中。(深江驛二十八町)

  土質九分赤土(子ハリアリ)、一分黒土。四分乾地、六分濕地。地味ニ分中、八分下。

  田ハ中稻。麥菜種畑ハ麥、琉球芋等ヲ作ル。旱魃ノ患アリ。

  耕地少シ、三分通波呂村ノ地ヲ作ル。

                  ー『福岡県史・近代資料編・福岡県地理全誌(六)』
                    巻之一百四十六 怡土郡之六 長石村







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  大字長石は彊域東波呂七町、西滿吉七町、西北石崎九町、南滿吉五町。

  人家は本村、平田、三月田(さんぐはって)、向ひ原の四所にあり。

  舊中津領廿四村の一なり。地形南に山ありて村落稍高し。

               ー『糸島郡誌』後編 一貴山村 第十三章 各區雑録







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かつての長石村は、西南に満吉、北西に上深江、北東に波呂に隣接する。
南の背振山系に向かって、南北に引き伸されたような縦長の形である。
集落はやや高い位置にあって、人家は本村、平田、三月田、向原の4ヵ所。
耕作地が少なく、隣の波呂村の田畑を耕作する家もあった。

村内に長い石があったことから、「長石(ながいし)」と付いたものと
考えられるが、肝心の石は特定されていない。

村社である長石神社の道を挟んですぐ西に「城山」と呼ばれる小さな山がある。
この山にはかつてこの地の豪族、西氏が居城していた
「宝珠岳城(ほうじゅだけじょう)」があったといわれている。
戦国の世であった天文の頃(1532-1555年)、西氏は高祖・原田氏の配下にあったが、
天文22(1553)年の高祖城落城を機に、龍造寺氏方へ靡いた。
ところが弘治元(1555)年、厳島合戦の活躍で原田氏が勢力を盛り返すと、
永禄10(1567)年、原田氏は西一族の一掃を企図する。
原田軍は西一門が守る雷山の筒城を攻め落とすと、続けて波呂城、
さらにその十日後には西左近鎮兼が構える宝珠岳城を攻めた。
西軍勢の防戦かなわず城が落ちたのは、この時である。
その後西氏は残ったわずかな手勢を連れて一貴山へ逃れ、
さらに十数日前に落城した筒城に再び立て籠ったが、原田勢の急追鋭く、
遂にさしもの豪族、西氏は亡ぼされてしまった。






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当時の村の貧富を示す一つの基準となる牛馬数。0は、記載漏れだと考えられるが。


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長石神社

由緒によると、天智天皇の時代、大宰府の庁舎である都府楼が建てられた時に、
その鎮守のために祀られたという竈門神社(宝満宮)から勧請されたと伝えられる。


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宝珠岳城跡

この地の豪族、西氏が居城していた「宝珠岳城」があったといわれている山。
築城年は定かではないが、『糸島戦国史』に落城は永禄10(1567)年9月11日とある。


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観音堂と大乗妙法典一字一石塔

西氏が居城していた「宝珠岳城」があった城山の向かいにひっそりとあるお堂。
由来はわからないが、石塔の方は、享保飢饉の供養塔と思われる。


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長石地蔵堂

長石神社からの東南150メートルにあるお堂の境内には、大きなスギの木が立っている。
被雷の影響で頂部から芯部に大きな亀裂が入っている。


長石村新右衛門夜這い事件について






参考:『怡土志摩地理全誌・1怡土篇』/由比章祐(糸島新聞社)
   『二丈町誌・平成版』/二丈町誌編纂委員会(二丈町)  他




posted by 由比 貴資 at 00:01| Comment(0) | 長石村
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