福岡県の最西部に位置し、佐賀県唐津市に隣接する糸島市の二丈地区。
昭和30(1950)年に、一貴山、深江、福吉の3村が合併し、「二丈」の地名は誕生しました。
合併3村に南方でまたがって聳える二丈岳がその由来になります。
以下は、二丈の歴史の流れを時代を追って紹介します。
◯●古代
外交の要衝地、伊都国の時代日本列島で稲作中心の農耕社会が成立した弥生時代(紀元前9世紀頃〜3世紀)。
朝鮮半島や中国大陸に近い糸島は、古代より大陸との玄関口であり、紀元前5世紀頃には水稲耕作の技術が伝来していたとされる。
初期の水田跡として、全国的に有名な佐賀県唐津市の「菜畑遺跡」や福岡市博多区の「板付遺跡」のほか、二丈地区にも「
石崎曲り田遺跡」がある。
弥生時代後期頃には、日本列島は中国(漢)王朝から「倭国」と呼ばれて、その傘下にあった。
後に志賀島で発見された金印「漢委奴国王」からは、倭国と中国の王朝との関係性がわかる。
この頃の糸島は、外交の要衝地「伊都国」として栄え、二丈はその一部であったと考えられる。
倭国の大乱を経て、邪馬台国の卑弥呼が倭国王になると、伊都国もその支配下に置かれた。
『「魏志」倭人伝』には、中国の使者たちは末盧国(佐賀県松浦郡)を経由して伊都国へ向かったとあるが、 その途上にある二丈の海岸線も彼らの通路となっていたはずである。
ヤマト王権が形成された古墳時代(3世紀後半〜7世紀頃)は、畿内を中心に大型の前方後円墳が全国に出現した。
4世紀後半、ヤマト王権は日本列島主要部の支配を強固にしたが、この頃の前方後円墳には、二丈田中で発見された「
一貴山銚子塚古墳」がある。
縦穴式の石室からは青銅鏡10面が出土し、円墳の規模からも糸島地方首長クラスの人物が埋葬されていたとの見方が強い。
律令時代、伊都国は「怡土郡」「嶋郡」へヤマト王権の本拠が飛鳥に置かれた飛鳥時代(6世紀後半〜8世紀初頭)頃から、中央集権化への動きが活発になり、7世紀中頃の大化の改新によって天皇中心の政治に移行した。
天武天皇の時代には、唐に倣って律令制が導入されて、8世紀初頭の大宝律令制定に結実した。
奈良時代(8世紀初頭〜末)には、遣唐使が盛んに派遣されて、律令国家体制の強化が図られると、国制整備も急速に進んだ。
五畿七道の行政区分を基礎に、西海道(九州)には大陸との外交や防衛上の重要性から大宰府が置かれた。
地方官制においては、国郡里(のちに郷)制が制定されて、伊都国が「怡土郡」と「嶋郡」に分けられたが、この頃の地名は、古い辞典『和名類聚抄』に記録されている。
そこで認められる怡土八郷のうち、「石田郷」が長石・武・田中・浜窪辺り、「海郡郷」が深江辺り、「良人郷」が吉井辺りといわれている。
また、中央政府と地方の連絡・通信には駅伝制が敷かれて、諸道の約30里(約16キロメートル)ごとに駅家(うまや)が置かれた。
駅家は、官吏や使者またその馬に食事を提供するほか、長旅で疲労がたまった馬を元気な馬と交換するための施設であった。
筑前国に設置された16の駅家のうち、糸島地方は3ヵ所を数え、二丈地区内には深江に
深江駅家、鹿家辺りに佐尉駅家があったとされる。
聖武天皇時代、吉備真備と糸島聖武天皇の時代(724-749年)、遣唐使として唐から帰朝した吉備真備は、天皇の寵愛を受け昇進を重ねていたが、これを排除しようと太宰府で乱を起こした者がいる。
大宰少弐に左遷されていた藤原広嗣である。
この鎮圧のため朝廷が送り込んだ追討軍に敗れた広嗣軍は、値嘉島(肥前国松浦郡)へ逃げ落ちたが、その途中、佐尉駅家(鹿家)で朝廷軍の伏兵にあった。
この時咳をしたために、非業の死を遂げた
馬卒・七郎の伝説が二丈鹿家に今に伝わる。
このような反乱や争い、また飢饉や疫病の流行もあって、社会的不安が高まったことを背景に、中央では仏教によって国の内政を図ろうとする鎮護国家の思想が強まった。
聖武天皇の発願で東大寺・国分寺が造立されると、同じく勅を受けた清賀上人によって怡土郡内にも「怡土七ヵ寺」が建立された。
そのうち二丈地区には、
夷巍寺(一貴山)と
久安寺(吉井)があったが、いずれも現存していない。
孝謙天皇の天平勝宝6(754)年、真備は大宰少弐に叙任されて九州に下向し、その2年後には怡土城築城の専当官に任命されている。
怡土城は、緊張関係にあった新羅侵攻の防備を目的として、高祖山の西側に築造された。
この頃真備が冠を置いたと伝承される「
冠石」が、二丈浜窪に残っている。
文化面においては、8世紀を通して、現存する最古の書物である『古事記』をはじめ、『日本書紀』、『万葉集』、『風土記』などが次々と編まれた。
その中でも『古事記』や『日本書紀』に登場する神功皇后にまつわる伝説は、深江の
鎮懐石八幡宮や吉井の
浮嶽など、糸島にも数多く残っている。
鎮懐石伝説に感銘を受けて
山上憶良が詠んだ長歌が『万葉集』に収められており、その冒頭文では「筑前國怡土郡深江村子負原」の地名が確認できる。
◯●中世
平安時代、原田氏の糸島進出と後退奈良時代の律令制下では、農地増加を図るために墾田私有が認められたが、平安時代(794−1185年頃)中期になると、皇室や摂関家、有力な寺社など権力者へ寄進する寄進地系荘園が主流となった。
怡土・志摩郡全域には、鳥羽天皇中宮領の荘園「怡土庄」が広がり、「深江庄」や「原田庄」が一部あって、この頃には一貴山東部は原田氏の支配下にあった。
原田氏の先祖は、天慶2(939)年の藤原純友の乱鎮圧で戦功を挙げた大蔵春実である。
源平の争いが始まると、平氏に与し、平重盛(清盛の長男)の養女を妻にした原田種直は、大宰少弐の立場から九州における平氏支配の基盤をつくった。
やがて源平合戦で平氏の敗色が濃厚になると、その一門郎等の中には追われ身となる者が出てくる。
重盛の妻もまた、二人の遺児を連れて、種直を頼って九州へ逃れた「
平家の落人」である。
一行は種直の計らいによって二丈満吉の山深く、唐原の地に隠れ住んだという。
元暦2(1185)年、壇ノ浦で平氏一族が滅亡すると、原田家の領地はすべて没収されて、種直は13年もの間、鎌倉に幽閉されることになる。
鎌倉時代、原田家再興と元寇武士の頂点に立った源頼朝は、全国に守護を配して鎌倉に幕府を開いた。
源氏の御家人であった武藤資頼(後の少弐氏)が鎮西奉行に抜擢されると大宰少弐も兼任し、筑前・豊前・肥前の守護となって、北部九州一円で勢力を奮うようになった。
れで原田氏の領地は、少弐氏の支配下に置かれることになった。
建久8(1197)年、赦免された種直は筑前に帰還し、源氏に与する一族を頼って原田家の再興を図った。
ほどなくして怡土庄の一部を支配するまでになった種直は、これは信仰する竃戸宝満宮と太宰府天満宮のご加護であると、片峯(二丈上深江)に分霊して、
宝満宮を建立した。
建仁3(1203)年には深江に移し、後の
深江神社(竃戸神社)となって、これにより深江の地が大きく発展することになる。
また同年、平重盛の菩提を弔うため、二丈波呂に天台寺極楽寺(後の
龍国禅寺)を建造している。
その後、種直の4代後になる原田種継が、高祖山の怡土城城郭を利用して高祖城を築いた。
原田氏の出城である二丈岳城や高祖崎城が築城されたのもこの頃である。
文永11(1274)年と弘安4(1281)年の2度の元寇では、鎮西奉行の少弐氏(西方)と大友氏(東方)が日本軍総大将として大功を挙げて、両氏はその恩賞によって怡土志摩の大部分を支配するようになった。
一方で郷土の名主たちは、異賊の再襲に備えて、石塁の築造やその補修に加えて、沿岸警備に駆り立てられることになった。
その負担は重く、志摩郡東部の総地頭職にあった大友氏の年貢徴収に抵抗する者たちまで出た。
南北朝〜室町時代、尊氏と糸島南北朝元弘3(1333)年、後醍醐天皇が全国の武士に向けて倒幕の綸旨を発した。
これに呼応した足利尊氏が六波羅探題を攻め落とすと、九州では少弐氏と大友氏が郷土の名主たちを味方につけて、鎮西探題(北条英時)を攻略した。
激戦の末、鎌倉に攻め入った新田義貞が北条氏一門を滅ぼし、鎌倉幕府は滅亡した。
建武の新政と呼ばれる後醍醐天皇による親政が始まったものの、これが武士層の不満を招き、建武3(1336)年には尊氏が反旗を翻す。
天皇は尊氏追討を新田義貞に命じ、これに敗れた尊氏は九州に下ってきた。
これを迎えたのが少弐氏で、少弐方の郷土の名主たちも組み入れられて、尊氏は軍勢を立て直した。
多々良川の戦いで南朝方の菊池軍に大勝した尊氏は、そのまま郷土の名主たちも引き連れて再び東上し、一挙に京都を制圧した。
室町幕府を開いた尊氏は、光明天皇を擁立した(北朝)が、その一方で京都を脱出した後醍醐天皇が吉野へ逃れて朝廷を開いた(南朝)。
ここに、同時に二つの朝廷が対立する南北朝時代が到来することになって、日本各地で守護や郷士たちが、それぞれの利害関係から、北朝あるいは南朝に拠って戦乱を繰り返した。
1340(興国元/暦応3)年、南朝方の新田禅師(新田義貞の一族)と深江の地頭であった深江孫次郎種長が挙兵し、深江や片山を焼いて一貴山に立て篭った。
これに対し、北朝方の松浦党・中村弥五郎や荻浦・重富四郎正高が鎮圧に向かった。
一貴山・夷巍寺が仁王門を残し、全焼したのはこの時である。
室町時代は、鎌倉に引き続き守護制を継承し、守護が力を付けていった時代である。
この頃北部九州で勢力争いを展開していた大内氏、大友氏、少弐氏の3勢力の抗争に、否応なく郷土の住民たちも巻き込まれていった。
戦国糸島、戦国大名たちの勢力争いに巻き込まれる1392(元中9/明徳3)年には南北朝は合一されたが、戦国動乱期の最中にあって糸島もまた、筑前進出を狙う守護(戦国)大名を中心に激しい攻防戦の場となっていた。
この頃の糸島は、大内氏に与する怡土の高祖城・原田氏と、大友氏に従属する志摩の草場城・臼杵氏の二大抗争を中心に、その取り巻きの間でも大小の争いが絶えなかった。
戦国糸島の緒戦は、永享3(1431)年、
二丈岳城の戦いである。
大内氏の急襲によって糟屋郡の立花城を追われた大友氏は、二丈岳城・草野氏を頼って、少弐軍とともに二丈岳城下の萩ノ原で布陣し、大内軍の追討に備えた。
そこへ大内軍が高祖城・原田軍を加えて押し寄せてきたので、総勢一万もの兵が交戦。
戦の血で川の水が淀んだことから、「
淀川」の地名が残ったほどである。
この戦いで大内盛見が討死し、深江の町も戦火にあって
正覚寺は焼失した。
深江・萩ノ原の堂山には、この時の戦死者を祀る
千人塚が現在まで祀られている。
天文20(1551)年、大内義隆が陶晴賢の謀叛によって自害に追い込まれると、大内氏の筑前支配を支えていた原田氏は、急速に衰退していくことになる。
陶氏に服さなかった原田氏は、天文22(1553)年、陶・大友連合軍により高祖城を攻略され、当主であった原田隆種は蟄居という憂き目にあった。
これで、原田氏の家臣の中で肥前・龍造寺方になびいた一族がいる。西氏である。
やがて厳島の戦いで毛利元就によって陶氏が滅ぼされると、原田氏は高祖に帰城した。
永禄10(1567)年、謀反の態度を示す西氏に対し、原田氏は猛攻を仕掛けた。
西一族が居城する雷山の筒城、波呂の波呂城、
長石の宝珠岳城を次々と攻め落とし、わずか十数日の間に西一族は全滅に追い込まれた。
織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ちにした元亀2(1571)年、原田一族で草野家に養子に入った草野鎮永が、二丈岳城の実権を掌握し、吉井氏との領地争いから、吉井氏の領内に火を放ち吉井城下に迫った。
その夜、吉井軍が深江氏に加えて志摩勢の援軍とともに吉井浜で野営していたところ、草野勢の夜襲を受けて、吉井方は戦力の多くを失った。
草野方の勝利に終わったこの吉井浜の戦いは、その後大友氏の命により和睦した。
戦国糸島、秀吉の天下統一に収束される元亀4(1573)年、京都から足利義昭が放逐されてから、時代は安土桃山に突入した。
そのわずか11年後の天正12(1584)年には、関白となった秀吉が紀伊、四国、越中をすでに平定し、全国統一事業を着々と進めていた。
この年、二丈鹿家では合戦が繰り広げられて、原田氏が波多氏を討ち滅ぼしたが、この頃の九州では、大友氏、龍造寺氏との三つ巴を制した島津氏が、南九州から九州全域に大きく勢力を伸ばしていた。
天正15(1587)年、秀吉が九州征伐に乗り出すと、これに島津氏は対抗したが、大内氏滅亡後は島津氏と盟を結んでいた原田氏は、秀吉軍の圧倒的軍勢を前に高祖城を明け渡した。
まもなく島津氏も降伏し九州が平定された後、小田原の後北条氏が滅ぼされて、秀吉の天下統一は完遂した。
全国統一からわずか2年後の天正19(1591)年。
秀吉は大陸進出を企図して、朝鮮出兵を全国に布告するや、その前線基地として肥前国に名護屋城と遠征軍用の宿舎の造築を始め、わずか半年間で完成させた。
宿舎の造営には、吉井・深江の松木が使われ、郷土の人々の出役となった。
天正20(1592)年4月には、秀吉は現地入りするため、京都から山陽道を抜けて、北九州、怡土郡と通過して名護屋城へ着陣している。
この時秀吉が通った道は「太閤道」と呼ばれ、二丈地区内では
松国小松崎にその足跡が残っている。
また、参拝時に秀頼誕生の報を受けたという
深江神社、その境内は「太閤お茶会跡」の標が立っており、その茶会では深江・西町の木下家の井戸水が汲まれたという言い伝えもある。
ほかにも吉井・大門の「太閤馬つなぎの木」など、二丈には数多くの太閤伝説が残っている。
◯●近世
江戸時代、怡土郡西部(二丈)は領主の交代が度々であった徳川家康が江戸幕府を開くと、筑前国は黒田長政が領し、初代福岡藩主となった。
これによって糸島においては怡土郡東部と志摩郡全域がその所領となったが、怡土郡の西部だけは分割されて、小早川領(秀吉の蔵入地)から、唐津領、幕府領、中津領、対馬領と、明治4(1871)年の廃藩置県までめまぐるしく藩領が変わった。
唐津領時代の二丈初代唐津藩主となった寺沢志摩守広高は、秀吉時代の朝鮮出兵でも活躍し、その後の関ヶ原の戦いでも軍功を挙げた人物である。
志摩守は、領内の支配に郷足軽制を採用し、神在村赤坂と深江村萩ノ原に番所を設置した。
また
新田の開発にも尽力し、大入駅の東西には「新田」、「新開」といった地名がみられ、駅の南側には
「志摩守大明神」と刻まれた碑がひっそりと立っている。
虹の松原(佐賀県)に約6キロメートルに渡って続く、松林の植樹を指揮したのも志摩守で、二丈福井には、志摩守の率先垂範を象徴する行動に由来する「
白み口」という地名が残っている。

寺沢家が二代限りで断絶すると、大久保氏、松平氏、土井氏の唐津領時代を経て、元禄4(1671)年、深江・佐波・大入は唐津領から幕府領となり、福井村も一部を残し幕府領に替わった。

これで深江が幕府領になったことで、隣村の片山(唐津領)との間で、秣場の利用権をめぐって大きな訴訟問題が発生することになる。
片山側の庄屋をはじめ三人が江戸に上って、3年がかりで幕府に直訴するに至り、落着となった。
この時の
三人の義挙を後世に伝える石碑が片山の山際に立っている。
江戸期を通して、度重る領地替えに翻弄されたのは、村で生活する庶民たちである。
水争いをはじめ、他領間ゆえに村同士が農業用水や入会地の権利をめぐって争いが起こることも少なくなかった。
豊前中津領時代の二丈享保2(1717)年、幕府領は田中、浜窪、片山の3村を残し、豊前中津領へ領地を受け渡すことになった。
怡土郡内の豊前中津領は、「神在組(東組)」と「深江組(西組)」の2組で編成された。

享保5(1719)年には、二丈武に代官所が置かれて、ここで藩の行政が行われるようになる。
代官には、武の浪人・原田菊エ門が採用されて、
原田屋敷がそのまま代官所となった。
明治4(1872)年の『
血浴び地蔵』の悲劇は、この屋敷周辺で起こったとされる。
享保の大飢饉と二丈享保14(1729)年から西日本で悪天候が続き、同17(1732)年には冷夏と害虫の大発生による不作に見舞われた。
この時の飢饉の死者は、『徳川実紀』によれば10万人近くを数えたという。
当時の深江・
正覚寺の門徒だけでも、死者は392人にも及んでおり、その末寺である深江・新町の
延寿院には、飢饉の死者126人が弔われている。
二丈福井の街道沿いにも
飢饉死者を祀る地蔵堂があるほか、地区内に立っている飢饉関連の供養塔の数からも、飢饉被害の甚大さがわかる。
対馬領時代の二丈文化14(1817)年、対馬藩領の加増により、肥前国松浦郡11ヵ所、筑前国怡土郡は田中、浜窪、片山、本、鹿家、吉井、吉井浦、福井、福井浦の9ヵ所が幕府領からの領替えとなった。
これらの対馬藩領の飛地は「対馬藩浜崎領」と称されて、浜崎役所に田代代官が駐在して、その管轄下に置かれた。
明治以降、数度の町村統合を経て明治に入り、廃藩置県によって、福井、吉井、鹿家他9村が伊万里県に、その他の村々は中津県の管轄となった。
以降は下記の年表の通りである。
明治22(1889)年 <市制・町村制施行> 「一貴山村」「深江村」「福吉村」3村誕生
明治29(1896)年 <怡土・志摩郡合併> 「糸島郡」誕生
昭和30(1955)年 <一貴山村、深江村、福吉村の3村合併> 「二丈村」誕生
昭和40(1965)年 <町制施行> 「二丈町」誕生
平成22(2010)年 <前原市・糸島郡志摩町・二丈町合併> 「糸島市」誕生